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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。安祥松平家九代当主。江戸幕府の初代征夷大将軍三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。

家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。

勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。

概要

幼少期を織田氏ついで今川氏の下で人質として過ごす。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでの今川義元の討死を機に今川氏から独立して織田信長と同盟を結び、三河国・遠江国に版図を広げる。

信長が天正10年(1582年)に本能寺の変において死亡すると天正壬午の乱を制して甲斐国・信濃国を手中に収める

信長没後に勢力を伸張した豊臣秀吉と小牧・長久手の戦いで対峙するが秀吉に臣従。小田原征伐後は後北条氏の旧領関東への転封を命ぜられ豊臣政権下で最大の領地を得る。秀吉晩年には五大老に列せられ大老筆頭となる

秀吉没後の慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いにおいて西軍に勝利。慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任命され武蔵国江戸に幕府を開く。慶長20年(1615年)に豊臣氏を滅亡させ日本全国を支配する体制を確立。15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代(戦国時代・安土桃山時代)が終結。

家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は後に幕藩体制と称され264年間続く江戸時代を画した

死後は日光東照宮に祀られ薬師如来を本地とする東照大権現(とうしょうだいごんげん)として神格化され、「神君」、「東照宮」、「権現様」(ごんげんさま)とも呼ばれて信仰される。また、江戸幕府の祖として「神祖」、「烈祖」などとも称された。

生涯

※ 日付は、太陰暦による和暦。西暦の暦法は便宜上、ユリウス暦とする。

幼少期から初陣

三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として天文11年(1543年)12月26日寅の刻(午前4時頃)に岡崎城 にて誕生。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)。幼名は竹千代(たけちよ)。

3歳のころ、水野忠政没後に水野氏当主となった水野信元(於大の兄)が尾張国の織田氏と同盟したので織田氏と敵対する駿河国の今川氏に庇護されている広忠は於大を離縁。竹千代は3歳にして母と生き別れになる。

天文16年(1547年)8月2日、竹千代は数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られることとなる。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田信秀へ送られた。だが広忠は今川氏への従属を貫いたため、竹千代はそのまま人質として2年間尾張国熱田の加藤順盛の屋敷に留め置かれた。このとき織田信長と知り合ったという伝説があるが、史料にはない。

2年後に広忠は家臣の岩松八弥の謀反によって殺害された。今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広。
墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸に入った。

天文24年(1555年)3月、駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶る。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらい蔵人佐元康と改めている。永禄元年(1558年)2月5日には今川氏から織田氏に通じた加茂郡寺部城主・鈴木重辰を攻めた、これが初陣であり、城下を焼いて引き揚げ、転じて附近の広瀬・挙母・梅坪・伊保を攻めた。この戦功により、義元は旧領のうち山中300貫文の地を返付し、腰刀を贈った。

年表

和暦 西暦年は、1582年10月4日以前はユリウス暦、それ以降はグレゴリオ暦に基づく。日付は宣明暦長暦。 月日 数え年 内容
天文11年 1543年 12月26日 1歳 誕生
永禄3年 1560年 5月19日 19歳 桶狭間の戦い
永禄5年 1562年 1月15日 21歳 清洲城を訪問し織田信長と同盟を結ぶ。
永禄9年 1567年 12月29日 25歳 藤原姓徳川氏に改姓。従五位下に叙爵し、三河守に任官
永禄11年 1568年 1月11日 27歳 左京大夫
元亀元年 1570年 6月28日 29歳 姉川の戦い
元亀2年 1571年 1月5日 30歳 従五位上
1月11日 侍従
元亀3年 1572年 10月16日 31歳 二俣城の戦い
1573年 12月22日 三方ヶ原の戦い
天正2年 1574年 1月5日 33歳 正五位下
天正3年 1575年 5月 34歳 長篠の戦い
天正5年 1578年 12月10日 36歳 従四位下
12月29日 右近衛権少将
天正8年 1580年 1月5日 39歳 従四位上
天正10年 1582年 6月2日 41歳 本能寺の変、神君伊賀越え
天正11年 1583年 10月5日 42歳 - 10月7日 左近衛権中将(遡及)
天正12年 1584年 2月27日 43歳 従三位参議(遡及)
3〜4月 小牧・長久手の戦い
天正14年 1586年 10月4日 45歳 権中納言
10月27日 大坂城にて豊臣秀吉に臣従
11月5日 正三位
天正15年 1587年 8月8日 46歳 従二位権大納言。羽柴氏を下賜される(豊臣姓もか?)
1588年 12月28日 左近衛大将・左馬寮御監両官職兼任
天正16年 1588年 1月13日までに 47歳 左近衛大将・左馬寮御監両官職兼帯辞す。
天正18年 1590年 8月 49歳 関東移封。八月朔日、江戸城に入る。
天正20年 1592年 9月16日 51歳 豊臣秀吉の執奏により清華家の家格勅許。
慶長元年 1596年 5月8日 55歳 正二位内大臣
慶長5年 1600年 9月15日 59歳 関ヶ原の戦い
慶長7年 1602年 1月6日 61歳 従一位
慶長8年 1603年 2月12日 62歳 右大臣、征夷大将軍宣下・源氏長者宣下
10月16日 右大臣辞任
慶長10年 1605年 4月16日 64歳 征夷大将軍辞職・源氏長者は留任
慶長19年 1614年 3月8日 73歳 朝廷よりの太政大臣または准三后の内旨を辞退す。
1614年 - 1615年 11月〜12月 大坂冬の陣
慶長20年/元和元年 1615年 5月 74歳 大坂夏の陣
7月7日 武家諸法度制定
7月17日 禁中並公家諸法度制定
元和2年 1616年 3月17日 75歳 太政大臣
4月17日 死去
元和3年 1617年 3月9日 |贈正一位
-

※天正15年(1587年)8月8日付の「従二位権大納言昇叙転任」の宣旨では豊臣家康の名義でなされた可能性がある。同日付で息子・徳川秀忠も侍従に任官しているが、これは豊臣秀忠名義となっている(「秀忠公任官位記宣旨宣命下書留」(宮内庁書陵部蔵本))。同様に、同年12月28日付の「左近衛大将左馬寮御監両官職兼帯」の宣旨、慶長元年(1595年)5月8日付の正二位内大臣の昇叙転任の宣旨についても豊臣家康の名義であったと考えられる。現存の日光東照宮所蔵の徳川家康の任官叙位の宣旨は、元の宣旨が遺失したため(徳川実紀正保2年5月8日条)、正保2年(1645年)に将軍・徳川家光の要請により朝廷が再発行した文書として伝わっており、この再発行手続きの段階で豊臣からに変更した可能性がある。

※天正15年(1587年)12月某日、従一位行左大臣近衛信輔、左近衛大将兼帯を辞す(公卿補任)。同月28日、従二位行権大納言徳川家康、左近衛大将・左馬寮御監を兼帯(日光東照宮文書)。天正16年(1588年)正月13日、従二位行権大納言鷹司信房、左近衛大将兼帯(公卿補任)。これにより、同日までに徳川家康、左近衛大将及び左馬寮御監の兼帯を辞すと想定出来る。なお、文禄5年(1596年)5月8日付、家康に対する内大臣宣旨(日光東照宮文書)においては、家康の官位は、正二位行権大納言兼左近衛大将源朝臣家康となっているが、公卿補任では、家康の左近衛大将の兼任記事は無く、権大納言鷹司信房が左近衛大将を兼任している記事となっている。

※文禄3年(1594年)9月21日付、「文禄三年徳川家康宛豊臣秀吉知行方目録」(三重県関町の関地蔵院文書:四日市市史第8巻史料編近世Ⅰ 四日市市編・発行所収)によれば、宛名(家康)は、「羽柴江戸大納言殿」となっており、この時点では、羽柴の苗字を賜わっていたと考えられる村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』49号、1996年。『日本近世武家政権論』、近代文芸社、2000年、30頁。

さらに、その前年、文禄2年(1593年)5月20日に羽柴姓を使用している。東京国立博物館所蔵文書

人物・逸話

人物

身長
家康着用の辻ヶ花染の小袖は、身丈139.5cm、背中の中心から袖端まで59cmであるから、身長は155cmから160cmと推定される。
容貌
家康は背が低く、肥満体で醜男であったとされている(『翁草』)。下腹が膨れており、自ら下帯を締めることができず、侍女に結ばせていた(『岩淵夜話』)。家康に謁見したルソン総督ロドリゴ・デ・ビベロは、著作の『ドン・ロドリゴ日本見聞録』で、家康の外貌について「彼は中背の老人で尊敬すべき愉快な容貌を持ち、太子(秀忠)のように、色黒くなく、肥っていた」と記している。
武術の達人
* 剣術は、新当流の有馬満盛、上泉信綱の新陰流の流れをくむ神影流 剣術開祖で家来でもある奥平久賀(号の一に急賀斎)に元亀元年(1570年)から7年間師事。文禄2年(1593年)に小野忠明を200石(一刀流剣術の伊東一刀斎の推薦)で秀忠の指南として、文禄3年(1594年)に新陰流の柳生宗矩 を召抱える。塚原卜伝の弟子筋の松岡則方より一つの太刀の伝授を受けるなど、生涯かけて学んでいた。ただし、家康本人は「家臣が周囲にいる貴人には、最初の一撃から身を守る剣法は必要だが、相手を切る剣術は不要である」と発言したと『三河物語』にあり、息子にも「大将は戦場で直接闘うものではない」と言っていたといわれる。
* 馬術も、室町時代初期の大坪慶秀を祖とする大坪流を学んでいる。小田原征伐の際に橋を渡るとき、周囲は家康の馬術に注目したが、家康本人は馬から降りて家臣に負ぶさって渡った。豊臣軍の諸将は要らぬ危険を避けるのが馬術の極意かと感心したという(『武将感状記』)。
* 弓術については三方ヶ原の戦いにおいて退却途中に、前方を塞いだ武田の兵を騎射で何人も射ち倒して突破している(『信長公記』)。
* 鉄砲も名手だったと云われ、浜松居城期に5.60間(約100m)先の櫓上の鶴を長筒で射止めたという。また鳶を立て続けに撃ち落としたり、近臣が当たらなかった的の中央に当てたという(『徳川実紀』)。
好学の士
家康は実学を好み、板坂卜斎は家康について「『論語』『中庸』『史記』『貞観政要』『延喜式』『吾妻鑑』を好んだ」と記載している。家康はこれらの書物を関ヶ原以前より木版(伏見版)で、大御所になってからは銅活字版(駿府版)で印刷・刊行していた。また『源氏物語』の教授を受けたり、三浦按針から幾何学や数学を学ぶなど、その興味は幅広かった。
古典籍の蒐集に努め、駿府城に「駿河文庫」を作り、約一万点の蔵書があったという。これらは御三家に譲られ、「駿河御譲本」と呼ばれ伝わっている。
南蛮から贈られた薄石が瑪瑙と知らされたおり、『本草綱目』で確認させたように実証的であった。
多趣味
鷹狩と薬作りが家康の趣味として特に有名であるが、他にも非常に多くの趣味があった。
* 鷹狩は、府中御殿に滞在しながら お鷹の道で行われたとの記録が残っているほか、家康の鷹狩にちなむ地名や青山忠成や内藤清成の駿馬伝説などの伝説を各地に残すことになった。家康の鷹狩に対する見方は独自で、鷹狩を慰め(気分転換)のための遊芸にとどめずに、政治的・軍事的視察も兼ねた、身体を鍛える一法とみなし、内臓の働きを促して快食・快眠に資する摂生(養生)と考えていた(『中泉古老諸談』)。
* 薬作りは、八味地黄丸など生薬調合を行い、この薬が、俗に「八の字」とよばれていたことから、頭文字の八になぞらえ、八段目の引き出しに保管していた。「薬喰い」とも言われる獣肉を食すなど記録が多い。
* 猿楽(現在の名称は能)は、若いころから世阿弥の家系に連なる観世十郎太夫に学び、自ら演じるだけでなく、故実にも通じていた。このためもあってか、能は江戸幕府の式楽とされた。特に幸若舞を好んだという。
* 囲碁の本因坊算砂を天正15年(1587年)閏11月13日、京都から駿府に招いている。家臣の奥平信昌が京都で本因坊の碁の門下となり下国の際に駿府へ連れてきたとされる。自身で嗜んだのみならず家元を保護し、確立した功績から、家康は囲碁殿堂に顕彰されている。
* 将棋は一世名人・大橋宗桂に慶長17年(1612年)に扶持を与える。この功績により、平成24年(2012年)の名人制度400年を記念して、将棋十段の推戴状が贈呈される。
* 香道を好みの用材として、東南アジア各国へ宛てた国書の中で特に極上とされた伽羅を所望する記述があり、遺品にも高品質の香木が多数遺されている宮本義己「徳川家康と本草学」、笠谷和比古編『徳川家康―その政治と文化・芸能―』宮帯出版社、2016年。なお有名な蘭奢待については、慶長7年6月10日、東大寺に奉行の本多正純と大久保長安が派遣されて正倉院宝庫の調査を実施し、現物の確認こそしたものの、切り取ると不幸があるという言い伝えに基づき切り取りは行わなかった(『当代記』)。同8年2月25日、開封して修理が行われている(続々群書類従所収「慶長十九年薬師院実祐記」)飯田剛彦「正倉院宝庫修理の歴史と自然災害」『正倉院紀要』第38号2016年 宮内庁正倉院事務所 p.107、2018年6月15日閲覧
新しいもの好き
南蛮胴、南蛮時計など新しい物好きだった。
* 日光東照宮には関ヶ原の戦いに行くまでの道中で着用したとされる南蛮胴具足が、紀州東照宮には防弾性能を試したらしい弾痕跡が数箇所ある南蛮胴具足があり、渡辺守綱や榊原康政には南蛮胴を下賜し伝世している前者は個人蔵(蔵(e国宝に画像と解説あり
* 晩年の家康は、日時計、唐の時計、砂時計などを蒐集しており、時計が好きだったようだ。
* 遺品として、けひきばし(コンパス)、鉛筆、眼鏡、ビードロ薬壺などの舶来品が現存し、家康が理系的資質を持っていたことが窺える。
芸事は好まない
* 今川家での人質時代に今川義元に舞を所望されたが、猿楽にして欲しいと請い、見かねた家臣が代わりに舞っている。当時は中世文化が非常に盛んだった駿府で育ちながら、京文化への関心は元々少なかったようである。
* 家康は幼少期より茶の湯の世界が身近にあったが、信長や秀吉と異なり茶の湯社交に対する積極性は見られない。家康の遺産である『駿府御文物』には足利将軍家以来の唐物の名物・大名物が目白押しだが、久能山東照宮にある家康が日常に用いた手沢品はそれらに比べ質素な品が多い。
* ただし茶を飲むこと自体は好んでおり、天正12年(1584年)に松平親宅と上林政重に製茶支配を命じ、毎年茶葉を献上させている。なお、親宅は家康へ肩衝茶入『初花』を献上し、政重は後に宇治の茶畑の支配を任せられ、伏見城の戦いで戦死している。
家康が尊敬していた人物
家康は、中国の人物として劉邦、唐の太宗、魏徴、張良、韓信、太公望、文王、武王、周公を尊敬している。着目すべきはすべて周・漢・唐時代の人物で前王朝の暴君を倒して長期政権を樹立した王(皇帝)とその功臣の名が挙げられている。日本の人物では源頼朝を尊敬していた(『慶長記』)。
師は武田信玄
武田信玄に大いに苦しめられた家康ではあるが、施政には軍事・政治共に武田家を手本にしたものが多い。軍令に関しては重臣・石川数正の出奔により以前のものから改める必要に駆られたという事情もある。天正10年(1582年)の武田氏滅亡・本能寺の変後の天正壬午の乱を経て武田遺領を確保すると、武田遺臣の多くを家臣団に組み込んでいる。自分の五男・信吉に「武田」の苗字を与え、武田信吉と名乗らせ水戸藩を治めさせている。
書画
『翁草』(神沢貞幹)や『永茗夜話』(渡辺幸庵)には「権現様(家康)は無筆同様の悪筆にて候」とある。しかし、少年から青年期の自ら発給した文書類には、規矩に忠実で作法通りの崩し方を見せ、よく手習いした跡が察せられる。特に岡崎時代の初期の書風には力強い覇気が溢れ、気力充実した様子が窺える。こうした文書類には、普通右筆が書くべき公文書が含まれており、初期には専属の右筆が置かれていなかったようだ。天正年間になると、家臣や領土も増えて発給する文書も増加し、大半は奉行や右筆に委ねられていく。しかし、近臣に宛てた書状や子女に宛てた消息、自らの誠意を披露する誓書は自身で筆を執っている。家康は筆まめで、数値から小録の代官に宛てたとみられる金銭請取書や年貢皆済状が天正期から晩年まで確認でき、家臣や金銀に関する実務的な内容なものから、薬種や香合わせなどの趣味的な覚書、更に駿府城時代の鷹狩の日程を記した道中宿付なども残っている。
文芸として家康の書を眺めると、家康は定家流を好み、藤原定家筆の小倉色紙を臨模し、手紙でも定家流の影響を受けたやや癖の強い筆跡が窺えるようになるが、一方で連綿とした流麗な書風を見せる和歌短冊も残っており、家康が実学ばかりでなく古典や名筆にも学んだ教養人でもあった一面を表している。ただし『慶長記』には、先述の実学との対比で、根本・詩作・歌・連歌は嫌ったとある。絵も簡略な筆致の墨画が10点余り伝わっているが、確実に家康の遺品と言われるものはなく、伝承の域を出ない。しかし、『寛政重修諸家譜』に家康が描いた絵を拝領した記録があり、余技として絵を描いていたことが窺える。
健康指向
家康は健康に関する指向が強く、当時としては長寿の75歳(満73歳4ヵ月)まで生きた。これは少しでも長く生きることで天下取りの機会を得ようとした物と言われ、実際に関ヶ原の合戦は家康59歳、豊臣家滅亡は74歳のときであり、長寿ゆえに手にした天下であった。
その食事は質素で、戦国武将として戦場にいたころの食生活を崩さなかった。麦飯と魚を好み、野菜の煮付けや納豆もよく食べていた。決して過食することのないようにも留意していたといわれる。酒は強かったようだが、これも飲みすぎないようにしていた。
生薬にも精通し、その知識は専門家も驚くほどであった。海外の薬学書である本草綱目や和剤局方を読破し、慶長12年(1607年)から、本格的な本草研究に踏みだした宮本義己「徳川家康と本草学」、笠谷和比古編『徳川家康―その政治と文化・芸能―』宮帯出版社、2016年。調合の際に用いたという小刀や、青磁鉢と乳棒も現存する。腎臓や膵臓によいとされている八味地黄丸を特に好んで処方して日常服用していたという。松前慶広から精力剤になるを慶長15年(1610年)と慶長17年(1612年)の2回にわたり献上されており、家康の薬の調合に使用されたという記録も残っている(『当代記』)。欧州の薬剤にも関心を示しており、関ヶ原の戦いでは、怪我をした家来に石鹸を使用させ、感染症を予防させたりもしている。東照大権現の本地仏が薬師如来となった所以は家康のこの健康指向に由来している。
致命的な病を得た際にも自己治療を優先し、異を唱えた侍医の与安を追放するほど、見立に自信を持っていたが、自惚れではなく、専門的な知識に裏付けられたものである。本草研究も、後の幕府の薬園開設につながることから、医療史上に一定の役割を果たしたといえる。家康の侍医の一人、呂一官が創業した柳屋本店は今も現存する。
寡黙な苦労人
幼少のころから、十数年もの人質生活をおくり、譜代家臣の裏切りにより祖父と父を殺されており、そもそも織田家の人質になったのも家臣の裏切りによってともいわれている。家督相続後は三河一向一揆において後の腹心・本多正信らにも裏切られている。また、小牧・長久手の戦い後には重臣・石川数正にも裏切られている。働き者で律儀者・忠義者が多く、結束が固い強兵と賞賛される三河国人だが反面、頑固で融通が利かず内向的で自負心が高い。結束も縁故関係による所が大きい。こうした家臣たちを統御していくには日ごろからかなり慎重な態度が求められたようで、自然言葉数が少なくなったものと推察され、家臣たちの家康評には「なにを考えているかわからない」、「言葉数が非常に少ない」といった表現が多い。
吝嗇
家康の吝嗇(けち・りんしょく)にまつわる逸話は多い。
* ふんどしは薄黄色のものを使用した。しかしこれは薄黄色だと汚れが目立たないため洗濯の回数が減るという理由からである。家来にもこれを強いたが、武骨な三河武士は下帯は白を好み、この下知にだけは従わなかったとされる。
* 手洗いから出て懐紙で手を拭こうとしたところ、懐紙が風に飛ばされたので庭まで追っていって取り返した。それを見て思わず笑ってしまった小姓に対し、「わしはこれで天下を取ったのだ」と言い返している(『葉隠覚書』)。
* 新しい服をあまり買わず、洗濯して使っていたため、洗濯させられる侍女から新しい服を着てほしいと苦情が出たとき、天下のため倹約するのだと逆に説教した。また、侍女から料理の漬物がしょっぱいという苦情が出たので料理人に問いただしたところ、今でも侍女たちはたくさんおかわりしているのに、おいしい漬物を出したら何杯おかわりするかわからないと答えられ、笑ってそのままにした。
* 侍が座敷で相撲をしているときに畳を裏返すように言った(『駿河土産』)。
* 駿府の銭鋳所跡地を掘り返して、3年で運上金千両分の銅を回収した(『渡辺幸庵対話』)。
* 商人より献上された蒔絵装飾を施した御虎子(便器)の不必要な豪華さに激怒し、直ちに壊させた(『膾餘雑録』)。
* 代官からの金銀納入報告を直に聞き、貫目単位までは蔵に収め、残りの匁・分単位を私用分として女房衆を集めて計算させた(『翁草』)。
* 三河にいたとき、夏に家康は麦飯を食べていた。ある時部下が米飯の上に麦をのせ出した所、戦国の時代において百姓にばかり苦労させて(夏は最も食料がなくなる時期)自分だけ飽食できるかと言った(『正武将感状記』)。
* 厩が壊れても、そちらのほうが頑強な馬が育つと言い、そのままにした(『明良洪範』)。
* 家臣が華美な屋敷を作らないよう与える敷地は小さくし、自身の屋敷も質素であった(『前橋旧聞覚書』『見聞集』)。
* 蒲生氏郷は秀吉の後に天下を取れる人物として前田利家をあげ、家康については人に知行を多く与えないので人心を得られず、天下人にはなれないだろうといった(『老人雑話』)。
この結果、家康は莫大な財を次代に残している。『落穂集追加』では家康のは吝嗇でなく倹約と評している。普段は質素な生活に努めたが、必要な際には必要な出費を惜しむことはなかった。例えば『信長公記』に記された織田信長の接待においては京から長谷川秀一を招いて巨費を投じ、趣向を凝らした接待を行っている。大井川の舟橋などは信長を感動させるものだったと記されている。
家康公遺訓
家康の遺訓として「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。及ばざるは過たるよりまされり」という言葉が広く知られているが、これは偽作である。明治時代に元500石取りの幕臣・池田松之介が徳川光圀の遺訓と言われる『人のいましめ』を元に、家康63歳の自筆花押文書に似せて偽造したものである。これを高橋泥舟らが日光東照宮など各地の東照宮に収めた。
また、これとよく似た『東照宮御遺訓』(『家康公御遺訓』)は『松永道斎聞書』、『井上主計頭聞書』、『万歳賜』ともいう。これは松永道斎が、井上主計頭(井上正就)が元和の初め、二代将軍・徳川秀忠の使いで駿府の家康のもとに数日間滞在した際に家康から聞いた話を収録したものという。江戸時代は禁書であった。一説には偽書とされている。

村正の愛好家

家康は、武家の棟梁として古い名刀を蒐集し、「日光助真」(国宝、東照宮蔵)、「太刀〈銘 国宗/〉」(国宝、東照宮蔵)、「観世正宗」(国宝)、「庖丁正宗」(国宝)、「九鬼正宗」(国宝)、「妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ」(重要文化財、久能山東照宮神宝)など、多くの名物がその手元にあった。また、晩年の慶長19年(1614年)春には、大坂冬の陣に備えるために、伊賀守金道という刀工に1000振りの陣太刀を急造発注し、その政治的見返りとして朝廷に対し金道を「日本鍛冶惣匠」に斡旋している。

一方、家康を始めとする徳川家臣団が、戦場で使う武器として愛用していたのが、当時の「現代刀」だった伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)の刀工、千子村正(せんご むらまさ)と千子派(村正の一派)、そしてその周辺流派の作である。
以下のように、家康及び家臣団の少なからずが村正とその関係者の作を使用している。

  • 家康 - 村正の打刀と脇差を所有し、尾張徳川家に「村正御大小(むらまさおだいしょう)」として伝来した。
    • 脇差は大正期に売却されたが、打刀は現在も徳川美術館に所蔵され、村正に珍しい皆焼(ひたつら)刃の傑作として名高い。
    • 家康がこの大小を一揃いで差し実戦で使用したのか確実なところは不明だが、少なくとも今も打刀にはわずかに疵の跡が残っている、その後の調査で疵をならして修復した形跡が発見されている。}}。
    • この「皆焼」の刃文を持つ村正は相当な稀少品で、現存するのは他に短刀「群千鳥(むらちどり)」や短刀「夢告(むこく)」などの数点しかなく、しかもそのいずれもが評価の高い名作とされていて、家康の村正の作品への造詣はかなり深かったと見られる。
    • お膝元の駿河には村正と作風を共有する島田義助(元今川氏のお抱え刀工)がいて、六代目の義助に御朱印を与えるなど厚遇している。村正と義助は直接の師弟関係ではないが、お互いの派で技術的交流を続けていたから、作風が近づくことがよくあった。
  • 四天王筆頭酒井忠次 - 村正の高弟の千子正真の作を愛刀とし、狩りで猪を切ったことから自ら「猪切」の号と銘を付けている。
  • 四天王本多忠勝 - 愛槍「蜻蛉切」は天下三名槍の一つと謳われ、徳川家の覇業を支えた一本と世に名高い。
    • 作者の「藤原正真」は村正の弟子の千子正真、あるいは直接の弟子ではないものの村正と技術的交流があった文殊正真のどちらかとされ、いずれにせよ村正の影響が濃い槍である。
    • 千子正重の弟子の勝吉(村正から見て孫弟子)は桑名藩本多家お抱え刀工となり、本多忠政の代での姫路藩への加増移封(元和3年(1617年))にも随行し、後に本多家の命で蜻蛉切の写しも製作している。千子派に珍しい「勝」という字は、忠勝から偏諱を拝領したのではないか、という推測もされている。
  • 十六神将蜂屋貞次 - 村正の師の平安城長吉の槍を愛用(『三河物語』)。
  • 娘婿鍋島勝茂 - 愛刀「妙法村正」は村正の作品中の最高傑作の一つで、重要美術品に認定されている。
  • 娘婿真田信之 - 信之本人ものかは正確には不明だが、松代藩真田家には村正の高弟の千子正重の打刀が伝来していた

  


  • 娘婿黒田長政 - 村正の師である平安城長吉の槍を愛用し、後に名物「一国長吉」と称された。
  • 譜代大名丹羽氏次 - 千子正重の弟子の坂倉正利(村正から見て孫弟子)の槍を愛用し、「岩突槍」の号を付けている。

こうして徳川家の天下統一の一助となった村正だが、ここまで家康周辺に普及した理由として、以下の理由が挙げられる。

  • 斬れ味が凄まじい。
    • 関白豊臣秀次の愛刀「一胴七度」や、弟子の作である天下三名槍の一つ「蜻蛉切」の逸話からも知られるように、古来から村正一派の武器はその恐るべき威力を絶賛されてきた。多くの刀剣評論家や軍人が村正の斬れ味は比類ないと評価しており(村正)、兵器としての名声は日本刀最高峰に位置する。
  • 地理的に近い。
    • 家康の本拠地三河から村正の本拠地桑名へは、隣国尾張に入って七里の渡しを渡ったすぐという近場で、村正からは売り込みやすい上に、三河武士の側としてもオーダーメイドや修理に便利だった。
  • 費用対効果が高かった。
    • 現在は「古刀」の末期である「末古刀」に分類される村正だが、当時としては「現代刀」であって、古来からの名刀に比べて、実戦で使いやすい価格だった。
    • ただし、あくまで骨董品的な名刀と比較して安いというだけで、決して「安価」でも「数打物」(粗製乱造品)でもなかった。むしろ戦国当時に作られた刀としては最高級品の部類で、戦国時代の「現代刀」のトップブランド(当時)は和泉守兼定だが、江戸初期の標準価格表では村正は一般にその1/2から2/3の価格であり、村正(個人名ではなく数代で同じ名前を用いた)の最優の代の作であれば和泉守兼定とほぼ同額だった。このことから、大名に戦場で用いられる格式を有していた。
  • 鑑賞目的にも耐えうる。
    • 一般的知名度では鎌倉時代末期の正宗と並ぶ村正だが、現在の美術界では必ずしも同等に評価されている訳ではない。とはいえそれは時代が違いすぎるものを比べているから当然で、村正が室町時代を代表する芸術的巨匠であることは疑いなく、実戦刀としては所有欲を満たせるだけの高い美的価値を持っていた。

なお、かつては家康が村正を忌避していたという俗説があったが、現在では完全に否定されている。
村正は徳川家に祟るとする妖刀伝説が江戸時代に広く流布していたことそのものは事実(村正)で、村正は銘を潰されるなどの悲惨な被害を受けたが、そうした伝説は家康の死後に発生したものである。
徳川美術館は、家康が村正を忌避していたとするのは後世の創作、家康は実際は村正を好んでいた、と断言している。

妖刀伝説が広まった理由としては、以下の理由が考えられる。

  • 『三河後風土記』で、家康が村正を忌避し、織田有楽斎が家康を憚って村正の槍を打ち捨てたという逸話が捏造された。これは正保年間(1645-1648年)後に書かれた著者不明の偽書だが、江戸時代後期までは慶長15年(1610年)に十六神将平岩親吉が自ら著した神君家康の真実と信じられていた。
  • 家康の親族が村正で傷つけられたという妖刀伝説の逸話も、出処が怪しいものが多くそもそもどこまでが真実か極めて疑わしい。主家の家康自身が村正を好んだように、徳川家の重臣には村正や千子派(村正派)の作を持つ者が多かった。仮にそれらの傷害事件が事実としても、確率の問題でたまたま用いられたのが村正だったとしても不思議はなく、また、嘘だとしても、家臣団に普及していた村正を物語に登場させるのは説得力があった。家康の村正愛好のせいで逆に忌避伝説につながった皮肉な例と言える。

その他

居城
家康の生誕地は、三河国・岡崎だが、生涯を通じて現在の静岡県(浜松・駿府)を本城あるいは生活の拠点としている期間が長く、岡崎にいたのは、尾張国の織田氏のもとで人質として過ごした2年を含め、幼少期及び桶狭間の戦い後10年と極めて短い。
幼少から持っていた洞察力
10歳のころ、竹千代(家康)は駿河の安倍川の河原で子供達の石合戦を見物した。150人組と300人組の二組の対決で、付添いの家臣は人数の多い300人組が勝つと予想した。だが竹千代は「人数が少ない方が却ってお互いの力を合わせられるから(150人組が)勝つだろう」と言った。家臣は「何をおかしなことを言われるのですか」と取り合わなかったが、竹千代の予想通り、150人組が勝ったので、竹千代は家臣の頭を叩き、「それ見たことか」と笑ったという。
肖像画
平成24年(2012年)、徳川記念財団が所蔵している歴代将軍の肖像画の紙形(下絵)が公開された。家康の紙形は「東照大権現像」(白描淡彩本)とされており、よく知られている肖像画とは違った趣で描かれている。
信長の兄弟
『フロイス日本史』では、「信長の姉妹を娶り」とあり、家康は一貫して「信長の義弟」と書かれている。しかし現在のところ、この女性の存在を裏付ける史料は見つかっていない。
神君伊賀越え
本能寺の変直後の神君伊賀越えでは伊賀・甲賀忍者の力添えを受けて三河国まで逃走した。その道中、甲賀忍者の多羅尾氏の居館に着いたとき、家康は警戒して城に入ろうとしなかったが、城主・多羅尾光俊が赤飯を与えたところ、信用して城で一泊した。その後は伊賀の豪族・百地氏、服部氏、稲守氏、柘植氏の柘植清広等の護衛で白子まで辿り着き、この功で多羅尾氏は近江国で8,000石を領する代官に、柘植氏は江戸城勤めの旗本となった。他の伊賀・甲賀忍者らは「伊賀同心」として召し抱えられ後に江戸へ移った。また、このときの礼として百地氏には仏像を与え、これは現在も一族の辻家が所有している。
影武者説
大坂夏の陣の際に家康は真田信繁に討ち取られ、混乱を避け幕府の安定作業を円滑に進めるために影武者が病死するまで家康の身代わりをしていたとされる説。一説に異母弟の樵臆恵最もしくは小笠原秀政ではないかといわれる。大阪府堺市の南宗寺には家康の墓とされるものがある。徳川家康の影武者説も参照。
「徳川氏」について
戦国時代から江戸時代の大名の佐竹氏の家中には、実際の得川氏の末裔がおり、親藩ですら限られた家系しか徳川氏の名乗りが許されない中、単なる大名の家臣の立場で徳川氏を堂々と名乗っていた。

源氏への復姓時期について

先述の通り、家康は永禄9年(1566年)に藤原氏に改姓しているが、氏を源氏に復姓した時期については、はっきりしない。
天正14年(1586年)、安房国の里見義康(新田一族)に送った同年3月27日付の起請文では、徳川氏と里見氏は新田一族の同族関係にあることを主張している。ただし、これ以降も「藤原家康」名義の書状が現存しており、この起請文は偽文書の可能性が指摘されている。

近年の研究(笠谷和比古、煎本増夫ら)によると、家康が本姓を源氏だと称したのは天正16年(1588年)であるという。後陽成天皇の聚楽第行幸に際して提出した誓紙に家康が「大納言源家康」と署名しているためである。
他に天正19年(1591年)、家康が相模国の寺社に出した朱印状にも「大納言源朝臣家康」と記された書判もあり、これらのことから笠谷らは「豊臣政権下で家康はすでに源氏の公称を許されていた」と述べている。

阿部能久は、天正16年は足利義昭が正式に征夷大将軍を辞任した年であり、豊臣秀吉は家康が将来の「徳川将軍体制」を見越して源氏改姓をしたことを認識しつつ、それを逆手に取って関東地方を治めさせたと捉え、更に清和源氏の正統な末裔である足利氏の生き残りと言える喜連川家に古河公方を再興させることで、家康と喜連川家+佐竹氏など関東諸大名との間に一定の緊張関係をもたらすことで家康の野心を封じ込めようとしたと推測している

江戸幕府の支配に関して

家康が礎を築いた徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の支配体系は完成度の高いものである。江戸幕府は京、大坂、堺など全国の幕府直轄主要都市(天領)を含め約400万石、旗本知行地を含めれば全国の総石高の1/3に相当する約700万石を独占管理(親藩・譜代大名領を加えればさらに増加する)し、さらには佐渡金山など重要鉱山と貨幣を作る権利も独占して貨幣経済の根幹もおさえるなど、他の大名の追随を許さない圧倒的な権力基盤を持ち、これを背景に全国諸大名、寺社、朝廷、そして皇室までをもいくつもの法度で取り締まり支配した。これに逆らうもの、もしくは幕府に対して危険であると判断されたものには容赦をせず、そのため江戸幕府の初期はいくつもの大名が改易(取り潰し)の憂き目にあっており、これには譜代、親藩大名も含まれる。これは朝廷や皇室でさえも例外ではなく、紫衣事件などはその象徴的事件であった。

幕府に従順な大名に対しても参勤交代などで常に財政を圧迫させ幕府に反抗する力を蓄えることを許さず、また、特に近世初期は多くの転封をおこない「鉢植え」にした。些細な問題でも大名を改易、減封に処し、神経質に公儀の威光に従わせるように仕向けた。大名への叙位任官、松平氏下賜(授与)で、このように圧倒的な権力基盤を背景にして徳川将軍家を頂点に君臨させた。全国の諸大名・朝廷・皇室を「生かさず殺さず。逆らえば(もしくはその危険があるならば)潰す」の姿勢で支配したのが江戸幕府であった。

このように徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の絶対的な支配体系については「保守的・封建的」との見方もできる一方、強固な支配体系が確立されたからこそ、戦国時代を完全に終結させ、そして江戸幕府が250年以上に及ぶ長期安定政権となったことは否定できない事実である。

後の鎖国政策につながるような限定的外交方針を諸外国との外交基本政策にしたことから、幕末まで海外諸国からの侵略を防げたという評価もあるが、これらの「業績」は家康の死後に、当時の情勢において行われたものである。また明が海禁策をとるなど、当時の世界的な趨勢であるとも言える。

家康は朝廷を幕府の支配下におこうとした。慶長11年(1606年)には幕府の推挙無しに大名の官位の授与を禁止し、禁中並公家諸法度を制定するなどして朝廷の政治関与を徹底的に排除している。大坂冬の陣の最中である12月17日、朝廷は家康に勅命による和睦を斡旋したが、家康はこれを拒否した。さらに家康は秀忠の五女・和子を入内させ、外祖父として皇室まで操ろうとしたのである(入内の話は慶長17年(1612年)から始まっていたという。和子の入内が元和6年(1620年)まで長引いたのは、家康と後陽成天皇が死去したためである)。家康の死後、幕府は紫衣事件などを経て、天皇および朝廷をほぼ完全に支配することに成功した。この力関係は幕末の尊王運動が起こるまで続いた。

一族・譜代の取り扱いに関して

息子や家臣に対しても冷酷非情な面を見せる人物だったとされることが多いが、情に流されず息子や一族に対しても一律に公平であったと見る向きもある。

長男・信康の切腹に関しては、信長の要求によるものではなく、家康自らの粛清説も近年唱えられている。また、生母の身分が低い次男・結城秀康、六男・忠輝を、出生の疑惑や容貌が醜いなどの理由で常に遠ざけていたとされるが、これには異論もある。

関ヶ原の戦いにおいて江戸留守居役を命じられた秀康は、戦功を挙げるために秀忠に代わり西上したいと申し出たが容れられなかった。かねてから秀康には石田三成との交流があり、豊臣方に内通する恐れがあったとも考えられる一方で、武将として実績のある秀康に三成と友誼が深く西軍に呼応する恐れが強い佐竹義宣を監視させ、東北戦線で上杉氏と戦う伊達政宗・最上義光らの後詰め役として待機させたとされる。秀康は後の論功行賞において破格の50万石を加増、官位も権中納言まで昇進しており、最終的に67万石もの大封を与えられ、江戸への参勤免除、幕府からの使役の免除、関所を大砲で破壊しても黙認されるなど、別格の扱いを受けている。将軍継嗣がならなかったのは、豊臣秀吉の養子で、後に結城家に養子に入り名跡を継いでいることなどが理由とされる。また秀康の子・松平忠直には、秀忠の娘・勝姫を嫁がせている。

忠輝についても嫌われ、冷遇されたといわれたが、それを示す史料はなく、改易前には御三家並の所領(越後国・高田55万石)が与えられていた。

しかし秀康はともかく、嫡子・忠直や忠輝は家康よりもむしろ秀忠と不仲であったとされる。松平忠直は大坂の役で真田信繁(通称、幸村)らを討ち取る功績を挙げたが、論功行賞に不満を言い立てた。家康の死後は幕政批判や乱行が目立ったために秀忠によって隠居させられ、越前福井藩を継いだのは忠直の弟・忠昌であった。忠輝も秀忠により数々の不行状を追及されて改易させられた。

徳川四天王である本多忠勝や榊原康政を関ヶ原の戦い後に中枢から外し、この2人に次ぐ大久保忠隣を改易・失脚させている。しかし、榊原康政は老臣が要職を争うことを嫌い自ら老中職を辞退していることに加え、康政の跡を継いだ榊原康勝が大坂の陣で没した後に起こった騒動を家老の処分にとどめ、本多忠勝に対しては、その子・本多忠政と孫・本多忠刻に自分の孫・熊姫(松平信康の娘)と千姫を嫁がせるなど、譜代大名に相応の配慮は示しており、その例は例外も多いが鳥居家、石川家など枚挙に暇がない。大久保氏も忠隣の孫・忠職は大名として復権し、家康の死後は加増が行われ次代・大久保忠朝は旧領小田原への復帰と、11万石という有力譜代大名としての加増を受けている。ただし、忠職が家康の曾孫であるから、という見方もできるのも否めない。しかし、忠隣自身が家康死後に家康の誤りを示すとして秀忠からの赦免要請を拒否していることから、大久保氏を避けていたわけではないと思われる。

家康は吏僚の造反行為には厳しく、三河時代に武田勝頼と内通した寵臣・大賀弥四郎を鋸引きという極刑で処刑している。大久保長安についても、幕府中枢にある者の汚職・不正蓄財と扱い殊更に厳しくすることで、綱紀粛正を促したとする見方もできる。更には、人材の環流は組織の活性化に必須であり、一連の行為はあくまで幕府の体制固めとして行われた政治的行為として解釈することもできる。また、松平信康を含め、秀康・忠輝に共通するのは武将としての評価が高かったことにあり、武将としては凡庸とされ失敗もあり兄を差し置いて将軍となった秀忠の手前彼らを高く評価することは憚られたことが背景にある。

また、家康はかつて敵対していた今川氏・武田氏・北条氏の家臣も多く登用し、彼らの戦法や政策も数多く取り入れている。『故老諸談』には家康が本多康重に語った言葉として「われ、素知らぬ体をし、能く使ひしかば、みな股肱となり。勇功を顕したり」と記されている。

家康と同時代の人々

家康は、武田信玄を尊敬し、武田氏の遺臣から信玄の戦術や思想を積極的に学んだ。その反面、信長のように身分や序列を無視した徹底的な能力主義をとることはなく、秀吉のように自らのカリスマ性や金、領地を餌に釣って家臣を増やす事もなかった。
家康の重臣のほとんどは三河以来の代々仕えてきた家臣たちであった。

そのためか、彼らに天下を統一され遅れをとったが、代わりに自身は信頼できる部下だけで周囲を固め、豊臣政権の不備もあって天下人となった。とはいえ、その部下の中には今川氏・武田氏・北条氏等の自身が直接(主導)的には滅ぼしてはいない大名の家臣も含まれているため一種の漁夫の利(統一の際の汚れ役を信長・秀吉が被ってくれた)ともいえる。一方で偉大な先人から学びとり、それを取捨選択しその時流や自分の状況にあう行動をとったことは十分に名君と呼ぶに値するという見方もできる。

その戦振りに関しては、秀吉から「海道一の弓取り」と賞賛されたと伝わる。
家康は常に冷静沈着な知将だったとされているが短気で神経質な一面も持ち、関ヶ原の戦いでは開戦間際において一面に垂れ込める霧の中で使番の野々村四郎右衛門が方向感覚を失い陣幕に馬を乗り入れた際に苛立ち、門奈長三郎という小姓に侵入者が何者か尋ねるが、門奈は侵入者が誰だか知っていたが当人に責任が掛からないように配慮し答えなかった。家康は門奈のこの態度に腹を立て、門奈の指物の竿を一刀のもとに切り捨てたという。さらに家康は苛立ったり、自分が不利になったりすると、親指の爪を常に噛み、時には皮膚を破って血を流すこともあったという。その一方怒りに任せ家臣や領民を手打ちにするようなことは生涯ほとんどなかった。幼少期に今川家の人質だったころ自分に辛く当たった今川方の孕石元泰を後年探しだし切腹させた(『三河物語』)のは例外的処置である。

情を排する冷徹な現実主義者との評価がある一方、法よりも人情を優先させた事例もある。例えば三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって討死した夏目吉信の子が規律違反を犯しても超法規的に赦し、関ヶ原の合戦後に真田信之、本多忠勝らの決死の嘆願で真田昌幸を助命している。特に苦労を共にしてきた三河時代からの家臣たちとの信頼関係は厚く、三方ヶ原の戦いで三河武士が背を向けず死んで行ったという俗説をはじめ、夏目吉信・鳥居元忠らの盲目的ともいえる三河武士たちの忠節ぶりは敵から「犬のように忠実」と言われたこと(『葉隠覚書』)から、少なくとも地元である三河武士が持つ家康への人望は非常に厚かったようだが、一向一揆を起こされたことも考慮する必要がある。無論、有能な人材も重視し、安祥・岡崎譜代だけでなく今川氏・武田氏・北条氏の旧臣を多く召抱え、大御所時代には武士のみならず僧・商人・学者、更には英国人ウィリアム・アダムス(外国人に武士として知行を与えたのは家康のみ)と実力も考慮して登用し、江戸幕府の基礎を作り上げていった。

家康と宗教

戦国時代最大の武装宗教勢力であった一向宗は第11世門主・顕如の死後、顕如の長男・教如と三男・准如が対立し、教如が独立する形で東本願寺(真宗大谷派)を設立、後にこれに対して准如が西本願寺(浄土真宗本願寺派)を設立し、東西本願寺に分裂するが、この分裂劇に関与しているのも家康である。一説によると、若き日に三河一向一揆に苦しめられたことのある家康が、本願寺の勢力を弱体化させるために、教如を唆して本願寺を分裂させたと言われているが、明確にその意図が記された史料がないため断定はできない。しかし、少なくともこの分裂劇に際し、教如を支持して東本願寺の土地を寄進したのが家康であることは確かである(真宗大谷派も教如の東本願寺の設立に家康の関与があったことは認めている)。

現在の真宗大谷派は、このときの経緯について、「教如は法主を退隠してからも各地の門徒へ名号本尊や消息(手紙)の配布といった法主としての活動を続けており、本願寺教団は関ヶ原の戦いよりも前から准如を法主とするグループと教如を法主とするグループに分裂していた。徳川家康の寺領寄進は本願寺を分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団の現状を追認したに過ぎない」という見解を示している。

東西本願寺の分立が後世に与えた影響については、『戦国時代には大名に匹敵する勢力を誇った本願寺は分裂し、弱体化を余儀なくされた』という見方も存在するが、前述の通り本願寺の武装解除も顕如・准如派と教如派の対立も信長・秀吉存命のころから始まっており、また江戸時代に同一宗派内の本山と脇門跡という関係だった西本願寺と興正寺が、寺格を巡って長らく対立して幕府の介入を招いたことを鑑みれば、教如派が平和的に公然と独立を果たしたことは、むしろ両本願寺の宗政を安定させた可能性も否定出来ない。

ちなみに、三河一向一揆が起こった際、敵方の一向宗側には本多正信や夏目吉信など、家康の家来だった者もいた。だが家康は彼らを怨まず、逆に再び召抱えている。彼らは家康に恩を感じ、本多正信は家康の晩年までブレーンとして活躍し、夏目吉信は三方ヶ原の戦いで家康の身代わりになって戦死した。

また、同様に町衆に対し強い影響力を有する日蓮宗に対しても、秀吉が命じた方広寺大仏殿の千僧供養時に他宗の布施を受けることを容認した受布施派と、禁じた宗義に従った不受不施派の内、後者を家康は公儀に従わぬ者として日蓮宗が他宗への攻撃色が強いことも合わせて危険視した。そのため、後の家康の出仕命令に従わぬ不受不施派の日奥を対馬国に配流したり、他宗への攻撃が激しい日経らを耳・鼻削ぎの上で追放した。家康死後も不受不施派は江戸幕府の布施供養を受けぬことを理由として、江戸時代を通じて弾圧され続けた。

これら新興の宗派以外の古い天台宗・真言宗・法相宗にも独占した門跡を通じ朝廷との深い繋がりを懸念し、新たに浄土宗の知恩院を門跡に加え、更に天台宗の関東における最高権威として輪王寺に門跡を設けた。これら知恩院・輪王寺は江戸幕府と強い繋がりを持った。

一方でキリスト教に対しては秀吉の死後、南蛮貿易による収益などの観点から当初は容認しており、実際に江戸時代初期にキリスト教は東北地方への布教を行っている。しかしマードレ・デ・デウス号事件や岡本大八事件を経て、慶長18年(1613年)にバテレン追放令を公布する。

家康の死後、幕府は寺請制度等により、寺社勢力を完全に公儀の下に置くことに成功している。また、家康自身が東照神君として信仰対象になった。

徳川家康のスペイン外交と浦賀

鈴木かほるの研究によれば、秀吉の没後、家康が五大老の筆頭として表舞台に立ったとき、どの国よりもいち早く対外交渉をもったのは、当時、世界最強国と称されたスペインであったという。その眼目はスペイン領メキシコで行われている画期的な金銀製錬法であるアマルガム法の導入であり、そのスペイン人を招致するため浦賀湊を国際貿易港として開港し、西洋事情に詳しいウィリアム・アダムスを外交顧問としたという。家康はフィリピン(スペイン領)近海における私貿易船を絶滅させるため、慶長6年(1601年)正月フィリピン総督に宛て公貿易船の証として日本からフィリピンへ渡海する朱印状を交付することを伝えた。日本では古来から難破船の漂着は龍神の祟りとして積荷を没収し、その売り上げをもってその土地の寺社の修復に充てる習わしであったが、家康はこの仕来りを破り、慶長7年(1602年)8月に漂着船の積荷を保証することを伝え、安心して浦賀湊に商船を派遣するようフィリピン総督に通告した。つまり家康の朱印船制度創設は浦賀ースペイン外交にあったのである。浦賀にはウィリアム・アダムスの尽力により慶長9年にスペイン商船が初めて入港し、以後、毎年入港している。

メキシコ側の思慮によりアマルガム法の導入の実現には至らなかったが、慶長6年秋に上総大多喜浦に漂着した司令官ジュアン・エスケラや、慶長14年(1610年)9月に上総国岩和田沖に漂着したフィリピン総督ドン・ロドリコ・デ・ビベロをアダムスが建造した船で帰国させたが、その返礼大使としてセバスチャン・ビスカイノが浦賀湊に入港している。このときのビスカイノは日本の東西の港の測量および金銀島探検の使命を帯びて来航したのであるが、金銀島の発見には至らず、そのうえ船は破船してしまう。ビスカイノは帰国のための船の建造を家康に請うたが断られた。そこでビスカイノは奥州の港の測量の際、伊達政宗がメキシコとの貿易を希望していたことを想い起こし、宣教師ルイス・ソテロを介して伊達政宗に帰国の大型帆船の建造を依頼し、これが実現してサン・ファン・バウティスタ号の遣欧に至るのである。このとき将軍・秀忠は向井忠勝に政宗遣欧船の随行船として船を造船させている。この船は江戸内海の口で座礁してしまったが、このように秀忠が遣欧船を造船していた事実や、向井忠勝が公儀大工を伊達政宗のもとに派遣している事実、また幕府は禁教令によりビスカイノ一行を本国に帰国させなければならなかったことを考えれば、政宗遣欧船は幕府の知るところであったことは疑う余地もない。

元和元年(1615年)6月、サン・ファン・バウティスタ号がビスカイノの返礼大使ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナを乗せ浦賀湊に帰帆した。この船には政宗の家臣・横沢将監吉久や日本商人らが同船していた。しかし、家康が死去するとカタリーナに国外退去令が出され、彼らは元和2年(1616年)8月に浦賀を発航した。これがメキシコへ向かう最後の貿易船となった。こうして国際貿易港としての生命は絶たれ、スペイン人鉱夫の招聘は実現することなく訣別を迎えたのである。

近現代における評価

江戸期を通じて神格化され、否定的評価は禁じられており、明治維新後に家康の自由な評価が解禁された。山岡荘八の小説『徳川家康』では、幼いころから我慢に我慢を重ねて、逆境や困難にも決して屈することもなく先見の明をもって勝利を勝ち取った人物、泰平の世を願う求道者として描かれている。この小説をきっかけに家康への再評価が始まっている。

司馬遼太郎は家康について記した小説『覇王の家』あとがきで、家康が築いた江戸時代については「功罪半ばする」とし、「(日本人の)民族的性格が矮小化され、奇形化された」といった論やその支配の閉鎖ないし保守性については極めて批判的である。但し、司馬は家康本人に対しては、必ずしも否定的では無い。初陣を15歳で経験し、大坂夏の陣では73歳でありながら総大将として指揮を採り、その生涯では三方ヶ原の戦いなど大敗も経験したが、晩年まで幾多もの戦争を経験し、指揮も執り、戦死しなかったことを、「歴史上、古今東西見渡しても滅多に類を見ない」とし、「戦が強くはなかったが、戦上手であった」と評している。

天下を平定したとはいえ、信長・秀吉に比べて守旧的な組織しか作らなかったとして、家康を名君・奸君とするのは過大評価であるとする説もある。家康は、独断で物事を決するよりは、専ら評定を開いては家臣だけで議論をさせ、家臣たちが結論を出したところで決断をするところから、あくまでその議論のまとめ役や政策実行の代表者に過ぎない(部下の使い方がうまいという見方もある)、たまたま長生きしたために天下を取ることができた凡人に過ぎないとする意見もある。武光誠の『凡将家康天下取りの謎』がこの説を採っており、池宮彰一郎の小説『遁げろ家康』もこの観点より書かれている。

一族縁者

家康は2代将軍・徳川秀忠の父、3代将軍・徳川家光の祖父、4代将軍・徳川家綱、徳川綱重(6代将軍・徳川家宣の父)、5代将軍・徳川綱吉、8代将軍・徳川吉宗の曽祖父に当たる。

父母

  • 父:松平広忠、母:於大の方
兄弟姉妹
  • 異母弟妹:松平家元、内藤信成、松平忠政、樵臆恵最、市場姫
  • 異父弟:松平康元、松平康俊、松平定勝
正室
  • 正室・築山殿(清池院) - 関口親永(今川氏一門の関口氏(今川貞世の末裔))娘
  • 継室・朝日姫(南明院) - 竹阿弥娘、(豊臣秀吉妹)
側室
子女
男子
女子
猶子
* 八宮良純親王 - 後陽成天皇第八皇子

偏諱を与えた人物

功績のあった臣や元服する者に自分の名の一字(太字)を与えた。

  • 二条'''康'''道(公家・摂関家の二条家)
  • 松平信'''康'''(長男)
  • 結城秀'''康'''(二男)
  • 松平'''家'''元(異母弟?)
  • 松平'''康'''元(異父弟)
  • 松平'''康'''俊(異父弟、康元の弟)
  • 松平'''家'''清
  • 松平'''家'''忠(深溝松平家)
  • 松平'''家'''忠('''家'''次)(東条松平家)
  • 松平'''家'''次(桜井松平家)
  • 松平'''家'''乗
  • 松平'''家'''広
  • 松平'''康'''忠(従弟・義弟)
  • 松平'''康'''忠(矢田松平家、松平張忠の嫡男)
  • 松平'''康'''親(松井忠次より改名)
  • 松平'''康'''次('''康'''重)(康親の子)
  • 松平'''康'''長(戸田康長)
  • 松平'''康'''安(大草松平家)
  • 天野'''康'''景
  • 有馬'''康'''純(家康の玄孫にあたる)
  • 石川'''家'''成
  • 石川'''康'''通(家成の子)
  • 伊丹'''康'''直
  • 伊丹'''康'''勝(康直の子)
  • 太田'''康'''資(側近、のちの資宗)
  • 奥平'''家'''昌
  • 松平'''家'''治(養子・奥平家昌の実弟)
  • 西郷'''家'''員
  • 酒井'''家'''次
  • 榊原'''康'''政
  • 島津'''家'''久(初名:忠恒)
  • 田中'''康'''政
  • 最上'''家'''親(初名:義親)
  • 最上'''家'''信(家親の子・義俊の初名)
  • 本多'''家'''忠(本多忠政の別名)
  • 本多'''康'''重
  • 牧野'''康'''成
  • 来島'''康'''親
  • 山内'''康'''豊(別名:豊)?
  • 依田'''康'''国(依田信蕃の長男)
  • 依田'''康'''勝(依田信蕃の二男、のち加藤寛と名乗る)

関連史料

同時代の人物による記録
  • 家忠日記(松平家忠)
  • 信長公記(太田牛一) - 織田信長についての記事が主だが、同盟者の家康についての情報も多い。
  • 慶長記(板坂ト斎)
  • 本光国師日記(以心崇伝)
  • 駿府政事録(駿府記とも、後藤庄三郎光次?林羅山?)
  • 当代記(松平忠明?)
  • 三河物語(大久保忠教) - 元和8年成立、覚書。
  • 言経卿記(山科言経) - 公家の日記だが、公私にわたって家康と交流があり、その様子が記されている。
編纂物(資料的価値が高いとされるもの)
  • 朝野旧聞裒藁
  • 徳川実紀
  • 武徳編年集成

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 柴田顕正 『徳川家康と其周囲』全3巻、岡崎市役所、1934-35年。
  • 中村孝也 『徳川家康文書の研究』全4巻、日本学術振興会、1958-61年。
  • * 北島正元 『徳川家康―組織者の肖像―』、中央公論社、1963年6月。
  • 北島正元 『江戸幕府』、小学館、1975年。
  • 藤野保 『徳川幕閣 ─武功派と官僚派の抗争』、中央公論〈中公新書 88〉、1965年。
  • 徳川義宣編 『徳川家康真蹟集』、角川書店、1983年。
  • **
  • 『二条城、学研パブリッシング〈歴史群像 名城シリーズ 11〉、1996年5月。
  • *
  • 村川浩平『日本近世武家政権論』、近代文芸社、2000年。
  • *
  • 本多隆成 『定本 徳川家康』、吉川弘文館、2010年
  • * *
  • *
論文
  • 富士川遊「徳川家康の身體に就いて」、『史学雑誌』18編12号、1907年。
  • *宮本義己「徳川家康と本草学」、笠谷和比古編『徳川家康―その政治と文化・芸能―』宮帯出版社、2016年。
  • *平野明夫「戦国期徳川氏の政治的立場―織田氏との係わりを通して―」、『国史学』158号、1995年。
  • 滝川恒昭「里見氏にあてた家康の起請文」(『季刊ぐんしょ』58号、2002年)、後に滝川恒昭編『房総里見氏』〈中世関東武士の研究13〉戎光祥出版、2014年10月、ISBN 978-4-86403-138-7 に収む。
  • 柴裕之「永禄期における今川・松平両氏の戦争と室町幕府―将軍足利義輝の駿・三停戦令の考察を通じて―」(『地方史研究』315号、2005年)後に改題して「今川・松平両氏の戦争と室町幕府将軍」(『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年)に収む。
  • 赤坂恒明「元亀二年の『堂上次第』について ─特に左京大夫家康(三川 徳川)に関する記載を中心に ─」、『十六世紀史論叢』創刊号、 58〜78頁、 2013年3月http://www.geocities.jp/akasakatsuneaki/h/buryak1571.html
  • *
  • 桜井明『徳川家康公と久能山東照宮神廟の謎』2018年。

関連作品

小説
  • 山岡荘八
    • 『徳川家康』
      • 『徳川家康』(1964年、NET、主演:北大路欣也・市川右太衛門、上記小説を原作としたテレビドラマ)
      • 『徳川家康』(1965年、東映、主演:北大路欣也、監督:伊藤大輔、上記小説を原作とした日本映画。)
      • 『竹千代と母』(1970年、 日本テレビ、主演:中村光輝、 上記小説を原作としたテレビドラマ)
      • 『徳川家康』(1983年、NHK大河ドラマ、主演:滝田栄、上記小説を原作としたテレビドラマ)
      • 『徳川家康 戦国最後の勝利者』(1992年、テレビ朝日、主演:北大路欣也、上記小説を原作としたテレビドラマ。)
    • 『伊達政宗』
      • 『独眼竜政宗』(1987年、NHK大河ドラマ、出演:津川雅彦、上記小説を原作としたテレビドラマ。)
      • : 主人公は伊達政宗。家康は中盤から登場し、終盤は没するまで天下人として描かれている。
  • 司馬遼太郎
    • 『覇王の家』
    • : 家康の生涯で、今川家における幼少期から、小牧・長久手の戦いまでが詳細に描かれている。
    • 『関ヶ原』
    • : 関ヶ原の戦いが描かれており、家康の他に石田三成・島左近・本多正信も主人公。
      • 『関ヶ原』(1981年、TBS、主演:森繁久彌、上記小説を原作としたテレビドラマ)
      • 『関ヶ原』(2017年公開、東宝、主演:役所広司、監督:原田眞人、上記小説を原作とした映画)
    • 『城塞』
    • : 大坂の陣が描かれており、家康の他に小幡勘兵衛も主人公。
    • 『国盗り物語』
    • : 主人公は斎藤道三と織田信長。家康は主人公たちが去った後の天下人として描かれている。
    • 『新史太閤記』
    • : 主人公は豊臣秀吉。家康は律儀者だが秀吉にとって最大の障壁として描かれている。

※『覇王の家』『関ヶ原』『城塞』は「家康三部作」、『国盗り物語』『新史太閤記』『関ヶ原』は「戦国三部作」とも呼ばれる。

映画
  • 『家康公 徳川栄達物語』(1911年、横田商会、監督:牧野省三)
  • 『徳川家康』(1919年、日活、主演:尾上松之助)
テレビドラマ
  • 『徳川家康』(1988年、TBS大型時代劇スペシャル、主演:松方弘樹)
  • 『葵 徳川三代』(2000年、NHK大河ドラマ、主演:津川雅彦)
  • : 家康・秀忠・家光が主人公の三代記。
  • 『徳川家康と三人の女』(2008年、テレビ朝日、主演:松平健)
  • 『天地人』(2009年、NHK大河ドラマ、出演:松方弘樹)
  • : 主人公は直江兼続。家康は上杉征伐から関ヶ原の戦いにかけて主人公の前に立ちはだかることになるが、天下人になるまでは頭にこぶのある劣等感のある人物としても描かれている。
  • 『江〜姫たちの戦国〜』(2011年、NHK大河ドラマ、出演:北大路欣也)
  • : 主人公は江。家康は子供の頃の江に非凡さを認め、江と秀忠が結婚したことで舅として描かれる。
  • 『真田丸』(2016年、NHK大河ドラマ、出演:内野聖陽)
  • : 主人公である真田信繁にとっての生涯の宿敵として家康が登場し、喜怒哀楽を交え悩み苦しむ人間味のある姿が描かれている。
  • 『おんな城主 直虎』(2017年、NHK大河ドラマ、出演:阿部サダヲ)
  • : 主人公は井伊直虎。家康は、共に今川家配下であった時代から、その動向の如何が井伊家にとって影響の大きい人物として設定されており、遠江への侵攻による井伊家の消滅や、直虎の養子である井伊虎松の出仕など、幼少時から天正壬午の乱後の北条との同盟までの関わりが描かれている。
ゲーム
  • 『戦国BASARA』シリーズ (CAPCOM、声:大川透)
  • : 関ヶ原の戦いをモチーフとした「3」と、そのアニメ映像化作品『劇場版 戦国BASARA -The Last Party-』で主人公の一人として描かれている。

関連項目

  • 松平状
  • 徳川家康の影武者説
  • 東照宮 - 日光東照宮 久能山東照宮 仙台東照宮
  • 徳川家康の馬印
  • 源義家 - 家康の名は義家に由来するという。
  • 三英傑
  • 徳川四天王 - 徳川家康の功臣。酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人。
  • 徳川十六神将
  • 久能山御蔵金銀
  • 平塚八幡宮 - 徳川家康が御朱印地50石を寄進、慶長年間(1596年 - 1615年)には自ら参拝し、同年間の末頃に伊奈備前守忠次へ命じて戦火で荒廃していた社殿を再建させる。

外部リンク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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